荘厳寺の境内にある松(樹齢約 200~400 年)。玉山金山所縁の寺院であった荘厳寺が、金山の衰退により現在の地へ遷座するに伴い、植えられました。「玉山に帰りたい願を龍のようにくねる姿で表している」と言われており、里人の金山に対する思いを象徴する松として親しまれています。
玉山神社と共に金山の守護神として勧請された神社。玉山神社と対をなし、金山を守護してきた重要な社です。奥州藤原氏や伊達氏が深く帰依しましたが、金山の衰退とともに里におりて現在地に遷座しました。金山の栄枯盛衰を物語る貴重な文化財です。
衰退する金山で働く鉱夫の生活を支えるため、開拓した新田に壺の沢川から水を引いた用水堰。堰からのびる幹線水路約1キロメートルは、現在も使用されています。
衰退する金山で働く鉱夫の生活を支えるため、山間部を田畑として開拓した事跡を顕彰する碑。碑の周辺の田畑は、「新田」の地名で呼ばれています。
竹駒神社と共に金山の守護神として勧請された神社。奥州藤原氏や伊達氏が深く信仰しました。境内周辺は金鉱石や水晶化した鉱石が露出しており、当時の佇まいを今に伝えています。
昭和7年のJR大船渡線竹駒駅の開設とともに、金山を顕彰しその名を後世に伝えたいという地域の方々の強い思いで設置された塔です。戦争や震災で幾度も破壊されましたが、その度毎に地域住民の力で再建され今に至っています。金山の繁栄が如何に多大な影響を地域社会に与えたのかを知る上で欠かす事のできない貴重な歴史資料です。
氷上花崗岩にできた鉱床から産出する水晶。水晶は、花崗岩の主要構成鉱物である石英(金鉱石)が結晶化したもので、仏像の玉眼に使用されました。今も玉山金山の廃石の中に見つけることができます。金鉱石を特徴づける貴重な資料です。
気仙地区の金山に関する記述が多数みられる古文書。吉田家は気仙地区の大肝入(庄屋)を勤めた家柄で、当時の金山の稼働の様子が書かれています。豊臣秀吉や伊達政宗など時の為政者たちが、積極的に採金事業を展開させた状況を具体に示す貴重な資料です。
氷上山中腹に位置する金山。江戸時代、伊達政宗が積極的に金山開発を行い「気仙4大金山」の1つと呼ばれました。精錬所跡、検問所跡、千人坑などの遺構が山中に点在しており、近世の金山についてその全容を知ることができます。
入山については、竹駒牧野採草地農業協同組合のホームページをご覧ください。
豊臣秀吉がはじめた金採取制度の許可証。個人や少人数で稼働する、砂金採取や鉱石の露天掘りを許可した木製の許可書です。秀吉以後も伊達政宗が継承し実施。やがてこの制度を通じて採金は、人々の生業の1つとして地域に広く根付いていきました。古代から続く「みちのく」の砂金採取は、近世になっても為政者たちを魅了していたことを示しています。