The Story ofMichinoku Gold

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金山で働く鉱夫たちの労働唄が、漁師たちに伝わって大漁を祝う唄となった。金山からもたらされた文化が海の文化と融合し、地域産業の発展と共に育くまれていったことを強く実感させる郷土芸能です。「みちのくの地が育んだ山川と里、海とともに生きる風土の中に根付いた“金”との縁」を物語る特色ある文化財です。

金の産出を祝う「山の神」祭りで奉納された太鼓囃子。港町の発展と共に、航海の安全や大漁も祈願する芸能として根付きました。躍動感があり勇壮な太鼓の響きは、採金の中で生み出された文化が海の文化と結びつき、「活気や賑わいの象徴として脈々と人々に受け継がれてきた」ことを感じさせる貴重な郷土芸能です。

江戸時代、この地域での金掘りは生活の糧として根付き、日常的に盛んに行われるようになりましたが、盛んになればなるほど長期にわたり安定した金の産出量を確保することは難しく、地域の大きな負担となっていきました。気仙沼では、鰹漁などを導入しながら金掘りを継続、やがて風を受けて出帆するたくさんの船がひしめく「風待ち港」として発展していきます。気仙沼では、山師(鉱夫)たちが拓き、支えてきた港町だと言われています。「気仙沼港と風待ちの風景」には、採金が「みちのく」の風土に解け込み、港町を発展させた歴史が込められています。

江戸時代、鹿折金山などの金山開発や砂金徴収を任された唐桑の旧家の住まい。古舘鈴木家は延宝3(1675)年、紀州熊野から鰹釣り溜漁を伝え、のちに漁業や醸造業など、時代に合わせた多角的な家経営を展開し、明治時代には大谷鉱山の再開発も手掛けました。古舘鈴木家に残されている金掘り関係の古文書から、この地方で盛んに金掘りが行われていたことが分かります。この地域に浸透した「金」採掘、海と共に生きた旧家の在り方を伝える好例です。
*当構成文化財は非公開です。

玉山金山で産出した金を俵につめ、牛で運ぶ姿を模した張子の郷土玩具。江戸時代から製作されている伝統工芸品で、金山の繁栄を偲ぶ一品として地域に受け継がれてきました。

金色堂をはじめとする金の加工・細工技術を今に伝える伝統的工芸品。藤原秀衡が京より職人を招来し、産出した砂金をふんだんに使って豪華絢爛な器を作らせたのが起源とされます。

江戸時代、気仙沼に拠点を置いた仙台藩上級家臣・鮎貝氏の庭園。金鉱石をすり潰すのに使われた金山用の石臼が庭石として転用されています。近世金山が乱立し、古代から続く採金事業が広く根付いてきた地域だからこそ、こうした庭園が生まれました。金の採取に使われた道具類が地域の生活に溶け込んだことを示す好例と言えます。

箟岳山の沢での砂金採取に使われた道具類。古代より続けられてきた砂金採りは、近世の御本判制度を通じ、地域の人々の生活を支える生業として根付きました。日本初の産金地である涌谷町でも、近年まで、農閑期の副業として砂金採りが行われてきました。暮らしの中に溶け込み、息づいてきた道具です。

川での砂金採取や、鉱石から金を取り出す際に使われた道具類。古代より続けられてきた砂金採りは、近世の御本判制度を通じ、地域の人々生活を支える生業として根付きました。また、鉱石から採取する金山についても、その稼働が終了した後も個人経営による採金事業として里の中に定着し、近年まで採金事業が続けられてきました。暮らしの中に溶け込み、息づいてきた道具です。

日本初の金を産出によって「神仏の加護を受けた聖なる山」と位置付けられた箟岳山は、平安時代になると山岳信仰と結びつき「みちのくに安泰をもたらす聖地」と認識されるようになりました。一山寺院「箟峯寺」は、創建から 1,250年を経た今も山頂を「殺生禁断」の聖域としてまもり続けており、地域信仰の拠点となっています。箟峯寺は、産金で名を馳せた山が聖地化する中で、地域の安定を願う信仰の対象へと昇華したことを示す好例です。

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